3.11と社会福祉法人

震災の発生

慌ただしい一日の午後、重要な会議に出席するため車を走らせていました。仙台市役所の裏通りあたりで信号待ちをしていると、ラジオからのビーンビーンという緊急警報がしばらく続き、鳴り終わったかと思った瞬間、ガーンと車全体に衝撃が走り上下左右に揺れ始めました。2011年3月11日午後2時46分。東日本大震災です。

それは、まるで牛に跨ってロデオでもしているかのような経験したことの無い大きな揺れが3分程続き、道路わきの電柱やビルがいつ倒れてきてもおかしくないと思われるほどの恐怖を感じるものでした。これは間違いなく大きな被害が出ていると確信し、二つの大事な会議への欠席を決めて、お年寄りや職員の無事を祈りながら、施設長をしていた特別養護老人ホームアルテイル青葉へ直行しました。

震災時の施設の様子

幸いにも怪我人はなく胸をなでおろしました。
停電でエレベーターはもちろんのこと、電動ベッドや電源を必要とするものはテレビも医療機器も何一つ使えません。

携帯電話もインターネットも繋がらず、何が起きているのか情報が全く入ってこないことは恐怖でしたが、夜になると一部通信が可能になり、ネットから入ってくる津波の映像に更なる恐怖を覚えました。

夕方には雪が降りだし、お年寄りたちはローソクの明かりの中、一か所に集まりストーブを囲むようにして暖を採っていましたが、「こんなのは防空壕以来だなぁ」などと話し合っていました。

当然に断水していましたので、側を流れる広瀬川から水を運び、何とかトイレの排水をすることができました。

電気と水道の復旧には一週間くらいかかりました。

都市ガスも供給がストップしましたので、当日は中庭で火を起こしておにぎりとみそ汁を作りました。都市ガスが復旧するまでの約一か月間、お年寄りはお風呂に入ることができませんでした。

スーパーやコンビニからは、あっという間に品物がなくなり、ガソリンを給油するのに5時間以上並んでも品切れで給油してもらえない時もありました。

3月12日からは福祉避難所を開設し、地域の要援護高齢者や障害者そして津波で家を流されたお年寄りたちが避難してきました。福祉避難所は17人が利用し閉鎖されたのは半年後の10月でした。

これは、仙台市内で最も恵まれた環境にあり最も被害の少なかった施設の出来事であり、津波被害を受けた施設が筆舌に尽くしがたい状況だったことは言うまでもありません。

社会福祉法人の在り方

私は東日本大震災を体験して二つのことを胸に刻みました。

一つ目は、社会福祉法人こそが災害時に役割を果たさなければならないということです。
社会福祉法人は、地域に複数の拠点を有しています。そして、困っている人を支援できる人材とノウハウを持っています。
非課税である公益法人だからこそ、災害時において、社会福祉法人はその資源を地域のために最大限活用するべきなのです。

二つ目は、この日常の生活は当たり前にあるのではないのだということです。
あの震災の時に私たちは多くのボランティアの方々にお世話になりました。全国からの多くの支援物資に支えられました。
日常も正に支え合いの中にあるのです。私たち青葉福祉会も、震災時には多くの方に支援させていただきました。

しかし、その支援は普段交流を持っている人たちに限定されていたように思います。実際に自宅から避難所へ避難することができなかった人がどこにいるのかを把握していなかったので、支援の手も支援物資も届かなかった人が多くいたのです。

「日常的に行われていないことは、緊急時にも行われない」ということを自覚しながら、社会福祉法人は普段から地域の方々と交流していく必要があります。

私たち社会福祉法人は、平穏な時も災害時にも地域のために大きな役割を持っていることを肝に銘じながら経営に携わり、地域市民の福祉の向上に貢献してまいりたいと思います。